「リウマチ闘病手記」小西生世(女性)52歳

 

2004年8月30日

「手記を書くように」と先生に言って頂いてから、随分日が過ぎました。必ず書こうと思っていながら、遅くなったこと、お許し下さい。この北海道から、大阪の松本医院へ行くには迷いもありました。でも、行こうと決めたのは、いろんな患者さん達の手記を読んだからです。そんな迷っている方の参考になれば、幸いです。

 

松本医院を訪れるまで

<2002年4月>

 その日、春のぽかぽか陽気に誘われて、庭の掃除を始めた私は、ゴミを拾い、砂利を運び、庭に広がる松の葉を庭箒で掃いていました。何とか一日で終わろうと、少々無理をしてしまいました。

翌日、時間と共に、右手が全く上がらず、痛みも耐え難くなってきたので、近くのM病院の整形外科に行くと、「いわゆる四十肩とか五十肩というやつですね。」と、言われました。「困った!」と、思いました。実は、私は人形劇団に入っていて、四日後に公演を控えていました。ひどい炎症を起こしているのは分かっていましたが、五十肩となると、なかなか治りにくいと聞いていました。「何とかならないものでしょうか?」そう言ったと思います。「中には、劇的に効く人もいる注射があります。」と、医師。“劇的”という言葉に、少し抵抗を感じながらも、その時の私は、人形劇公演の事しか考えていませんでした。その注射は、まさに劇的に効きました。治療費を払う頃には痛みも薄らぎ、帰ってからの夕食も、箸で食べることが出来ました。翌日の昼には、手を上げることも出来たのです。そして、無事公演を終え、その後の痛みもありませんでした。

それがステロイドの局所注射で、その恐ろしさを思い知るのは、まだまだ後のことでした。

<2002年9月>

右手中指第一関節右側に、炎症。赤く腫れて、中に固いものがあるようでした。K整形外科へ行くと、「カルシウムが結晶化したもので、たまにある。」と言われました。「どうしてなるのか?どんなことに注意すればいいのか?」と聞きましたが、明確な答えはもらえませんでした。(リウマチに関係するかどうか、今もわかりません。)黄色の液体で、ガーゼに染みこませて使う湿布をするように言われ、数日間使ううち、腫れは引いていきました。

<2002年〜2003年 冬>

雪かきの雪が重く感じられ、持って投げるのが辛い。遠くへ投げられず、脇に寄せて置いたりしました。どうも、それまでと違う何かを感じながら、何か分からず、更年期?老化?運動不足?それとも全部?・・・とにかく怠いし、疲れやすい。特に筋力の衰えを実感!長椅子に横になることも多くなっていました。我ながら、怠け者だなあと、自己嫌悪でした。主人も後で言っていました。「あれくらいの雪かきで、大変だって?」と思ったし、椅子に横になっているのを見ると、イライラしたと。

<2003年1月>

新年早々、次男が骨折、入院、手術となりました。10日ほどの病院通いの中、右足親指が赤く腫れて、歩くと痛い。そのうち左足親指も、同じように赤くなってきました。そこで、息子の入院しているN総合病院の整形外科で診て貰うことに。今度は、「外反母趾の気があるね。これ以上症状が進まないように、靴を楽なものにするとか、足の指の体操をすると良い。」と、言われました。そう言えば、人形劇でしゃがんでいると、指が痛かったなあ。ハイヒールを履くことも殆どないのに。これも老化のひとつと聞いたことがあるなあ。でも、つい3ヶ月前のガン検診の際に受けた骨密度検査では、充分な数値だったのになあ。…それにしても、このところ、整形外科に行くことが多い。

<2003年4月>

春、人は何かを始めたくなります。私ももちろん!だらけた自分を鍛えよう。先ずは、基礎体力!腹筋と背筋をつける体操を始めました。気のせいか、1週間もすると、背筋がシャンとしてきたような?3週間すると、自転車を漕ぐのも軽く感じて・・・坂道も楽々でした。ところがそんなある日、体を支えていた右手首がカクッとなり、その後は、手を付くと、痛くて出来なくなりました。

<2003年5月>

月初めの頃から、右手親指と右足アキレスが痛くなる。また、近くのK整形外科へ行く。「どちらも腱鞘炎です。」とのこと。湿布と痛み止めを貰う。ところが、いっこうに良くならず、両膝も腫れて、歩くのも一苦労になってきました。湿布と痛み止めは変わりませんでした。このK整形外科には、リウマチ科はありません。そのうち、右中指の第二関節部が腫れて、痛みだしました。

丁度その頃、年一度、各世帯に配布される冊子がありました。それは市内の病院を紹介するもので、整形外科のページの中に、リウマチ専門の先生が書いた文章がありました。その内容に、私は「これだ!」と、感じました。「リウマチ???」早速、家庭の医学を調べました。似ている!そういえば、毎朝手が痺れたようで、起きる前に、グーパーグーパーと動かして、さすっていた。そのうち何ともなくなり、忘れていたが、いつからだろう?これは、「朝のこわばり」と言うらしい。そして、複数の関節の痛みと腫れ。中でもリウマチの特徴と言っても良い、第二関節の腫れと痛み!もう一度、私は冊子の文章を読みました。「関節に痛みやこわばりを起こす病気は、百前後あるといわれていますが、そのなかで最も治療上やっかいなものが、関節リウマチです。」・・・最も治療上やっかい?・・・・・「リウマチといっても、7割の人は、主に手足の関節が中心に障害される軽傷タイプ(うち1〜2割は、自然に治癒)ですが、残りの3割は、ほぼ全身の関節が侵される重傷タイプとなります。」・・・やっかいでも、治ることもある。・・・

とにかく、リウマチかどうか、検査しなくてはわかりません。そんなに悲観することはないと、まだ楽観的な私でした。

<2003年5月27日>

万一の場合、バスで通えるところと思って選んだ、T整形外科へ。血液検査の結果は翌日以降でしたが、「ひざは、変形性膝関節症。手の症状は、たぶんリウマチでしょう。」・・・やっぱり!・・・「ひざは、水がたまっているから、抜いて、ヒアルロンサンを入れると、なめらかになります。ひざだけでなく、全身的に効果があります。」そして、「これを、週1回で5週続けると、効果が高いんですが・・・」私は、「お願いします。」と言っていました。

帰りに、簡単な(簡単すぎる)冊子をもらう。・・・リウマチとはどんな病気か、どんなことに気を付けるかなど書いたもの。昔はいざ知らず、今は良い薬もあり、寝たきりになることも少なく、ちゃんと日常生活が出来る、というようなものでした。帰りは、足も軽くなり、元のように家事をこなすことが出来ました。それは、五十肩の時とそっくりでした。

<2003年5月29日>

血液検査結果

CRP 判定 +++ 4.0   RF 360

「条件はそろってますから、間違いなくリウマチです。」私は気になって聞きました。「判定の+3つは、同じ陽性でも、1つより強いということですか?」答えは「そうです。」の一言でした。私は、初めて不安になりました。・・・軽症タイプじゃないかも?・・・どうして、もっと説明してくれないの?・・・私は3割の重傷タイプなの?・・・全身の関節が侵されるの?・・・

モービックカプセル(解熱消炎鎮痛剤)、ガスロンN錠(胃薬)、アザルフィジンEN錠(抗リウマチ薬)

これが、これからずっと飲み続ける薬でした。私は、それまで薬を常用したことはありませんでした。アザルフィジンのオレンジっぽい色とその大きさは、不気味な気がしました。副作用のため、紫外線に当たらないようにと言われました。

その病院は、リハビリの患者が多く、リウマチの人はあまり見えませんでしたが、どうせ、どこへ行っても同じなのだろうと、そのまま通うことにしました。私は、あまりにもリウマチを軽く見ていたのです。・・・ヒアルロンサンの注射1本で、楽になるんだから・・・化粧品の成分だもの・・・5週続ければ、効果があるっていうんだから・・・ひょっとしたら、初期だから、治るかもしれないもの!・・・とにかく、言われるようにやってみよう、と思いました。それは、楽観的と言うより、そう思いたかった、という方が近い気がします。

<2003年6月>

リウマチだと分かってからは、家族の協力で、不自由さは随分カバーされていました。夫は、時間が出来ると、気分転換といって、ドライブに連れて行ってくれました。また、人形劇の公演もメンバーにも助けられ、15周年その他を何とか終えることが出来ました。週1回のヒアルロンサン注射の期間に、丁度当たっていたせいだったかもしれません。でも、搬入、搬出、裏方などは出来ませんでした。

私はインターネットで、関節リウマチを毎日検索していました。どこを見ても、治るなんて書いてあるところはありません。それどころか、正に、面倒な病気。これから先、どのように進行していくか?だんだん分かってくるにつれ、希望の持てない未来。一体、私は、どんなふうに生きていけばいいのか?子供が小さくて大変だけど、ご主人の助けで頑張っている人や、リウマチの進行が、日々の出来事と共に綴られた男性の日記などのホームページを見ては、正直、暗い気持ちになっていました。いいかげん探すのをやめようかと思った頃、見つけました!!はっきりと“完治する”と書いてある松本医院を!!

とにかく手記を読みました。「すごい!治っている!私よりずっと長い間リウマチに苦しんでいた人たちが、治っている!」私は、夢中で読み続けました。ひどいリバウンドが出る人もいれば、そうでない人もいる。それは体に入ったステロイドの量によるらしい。・・・と言うことは、私はどうなのだろう?・・・私が今まで打ってきた注射は、ステロイドが入っていたから、あんなに即効性があったのだ。すぐにここへ行けば、リバウンドも少ないということか?・・・でも、今は、注射やリウマチ薬が効いているのか、状態はそれなりに落ち着いている。(すこしこわばりがある感じ)・・・やっと見つけたけど、「治療のため、大阪へ行きたい!」とはちょっと言いにくい。やはり遠すぎる!・・・一病息災というし、うまく付き合っていくしかないかと覚悟して、野菜のスライサーも、ショッピング用のカートも買っていた。自転車も、ゆっくりだが乗っていた。・・・でも、でも、毎日松本医院のホームページを開いては、やっぱり“行きたい”と迷っていた。

ホームページには“免疫反応を抑制せずに、痛みを楽にすれば、完治する”と書いてある。・・・何となくだが、そうなんじゃあないかと感じる。・・・そして、“うまく付き合っていく”なんて、うそっぱちだと思い知らされる多くの患者さん達の手記がありました。長時間パソコンを見ていると、固まってくるのも忘れて読みました。・・・リウマチだと分かるまでの経過、分かった時の気持ち、その後の経過。「わかる!わかる!よ〜くわかる!」私は、すでに数本の注射をしている。1週間に1度の注射だが、だんだん日が経つと効果が薄れる感じは、この体が知っている。松本医院に出会うまでの手記の内容は、それまでの私が感じ経験したことから、充分理解出来る物でした。このままなら、私もいずれ・・・

実はその頃、夫に松本医院の話をしたことがあります。第一声、「大阪、あ?」そりゃあそうだ。びっくりするわねえ。確か、治療法も説明したと思うけど、私自身が迷っていたので、説得力がなかったし、その頃の夫は、まだこのリウマチという病気を、よく理解してはいなかったのです。

ステロイド入りの注射を薦める病院はいやだと思い、せめてそうでないことを願って、リウマチ専門のK整形外科へ転院する。

<2003年7月1日>

血液検査

CRP +0.8   RF 283

薬は、同じくそのまま。

ここに来る人たちは、ほとんどリウマチの患者。その姿は、将来の自分。小さな子を連れた、若いお母さんもいる。新薬を薦められて飲んでいるが、吐き気がするという人。注射したって、1日だもねえ、と言っている人。娘さんかお嫁さんか分からないが、私くらいの年代の女性に連れられた老女が、「早く!」と、しきりにせかされる姿。早くできるくらいなら、この病院には来ないだろうに、と思ったが、そのせかしている女性だって、長年の介護に疲れているのかも?・・・自分が苦しいだけなら、我慢もしよう。だが・・・

最後にステロイド入りの注射をしてから、1ヶ月もした頃から、リウマチ薬では押さえきれなくなったのでしょう。坂道を転げ落ちるとは、この事か。日々、不自由さは増していきました。

<2003年7月末>

めまいがして、病院へ

血液検査  CRP 2+  4.3

点滴をし、メスリン錠という薬をもらう。

<2003年8月>

左手中指第2関節が腫れる。歩く速度も、極端にゆっくりになる。体全体にこわばり。「油をさして!」ひざが曲がらない。のびない。ぎこちない。買い物もやっと。手が上がらない。後ろに回らない。だから着替えも大変。ブラジャーも無理。食器を洗っても、拭くのが大変。そこらじゅうに並べて、自然乾燥。シャンプーしても、首を曲げないと、手が頭頂に届かない。髪もとけない。ドライヤーが重い。掃除機も無理になってきた。洗濯物も、高いところには干せない。足が腫れて、今までの靴が履けない。サンダルがやっとだ。自転車なんて、とんでもない。そして、箸も持てない日がきた。

<2003年8月7日>

朝、ベッドから起きあがるのもやっと。壁で体を支え、這うように、3段の階段を上る。やっとソファーに横になるが、今度は起きあがれない。いよいよ限界。病院へ行くことに。だが、ステロイドは打たない、と心に決めて。

医師「注射で楽になりますよ。」ほら、きた。どうして、「楽になる注射」と言うのだろう?ちゃんと、ステロイドの注射と言えばいいのに。そして説明して欲しいのに。だから、確認しました。「つまり、ステロイドですね?」私が、昔のイメージのまま、ステロイドという言葉だけで躊躇していると思ったのでしょう。「アメリカなどでは、初期リウマチの早い内にステロイドを使い、症状を抑え、薬を処方してゆくことで、改善が見られる事が実証されている。」と、最近のリウマチ学会の話を始めました。それでも「うん」と言わない私に、とうとう「リウマチは、治るものではありません。徐々に進行するもの。その進行を、少しでも遅くすることで、上手に付き合っていくしかありません。そのための注射や薬の種類、その量や打つ場所など、微妙だが…(私は出来る)。」と言った。そして、ここまで言ってもしないのか?という顔をしていた。

だが、ステロイドはステロイド。また同じ事を繰り返すだけ!分かっていたことだけど“治らない”とはっきり言われたことで、心は決まりました。「考えてみます。」と言って帰ろうとする私に、「もし辛かったら、いつでもいらっしゃい。」そう声をかけられた。「はい」と答えながらも、「もう来ない。」と思った。

もう、迷っている暇はない。大阪へ行こう!私には、松本医院がある。ホームページを見つけたときから、私の支えだった“完治する”という病院を知っている。それは一筋の光だった。

迎えの車の中、ステロイドを勧められたこと、それを断ったこと、また、治らないと、はっきり言われたこと等を、夫に話した。そして大阪の松本医院へ行きたいと、改めて伝えました。松本先生の理論や、手記を数名分(私の症状に近い人、遠くからの人など)、すでにプリントアウトしてあったので、それを見て欲しいとも。夜、主人に改めて聞かれました。「行きたいのか?」私は、「治らないけど、日常生活には困らないようにしてあげると言う病院より、はっきり“完治する”と書いてある病院へ行きたい。このままでは、自分だけならともかく、家族皆に、この先ずっと迷惑をかけることになる。息子の結婚にだって、影響するかもしれない。ひょっとしたら、一時的にリバウンドで、寝たきりになるとしても、これからの一生と比べれば、短い。だから、協力して欲しい。将来、あの時行っておけば良かったと、後悔したくない。これでだめなら、あきらめもつく。」と答えました。そして真夜中。息子を交えての話し合いで、近々行くことに決まったのです。

それからは早かった。差し当たり、迷惑を掛けそうな所に連絡をする。「しばらく、闘病生活に入る。」と。美容室で、髪も伸びてきてもよいようにそろえて貰った。足の腫れに合った靴も買った。病院の盆休みの確認をして、旭川からの直行便に乗り、川崎の長男と、伊丹で合流することにした。

ところが、前日から首が傾き、肩や背中もおかしい。起きていても寝ていても辛い。頭も、ボーッとしてるような、痛いような(多分、熱があった)。当日、このままではとても大阪まで行けそうにない。どうせ鍼治療院を探さなければならないので、一度行ってみることにする。近くの治療院へ問い合わせると、リウマチの患者を診ているという。

初めての鍼。とにかく大阪へ行って来られるようにして欲しいことを伝える。急性期の筋肉リウマチだと言われ、即効性はないが、だんだんに楽になるからと、首に鍼を指したまま、大阪へ向かうことに。空港では、リウマチだと伝え、荷物を持って貰い、出入り口すぐの席にして貰った。伊丹で長男と合流し、高槻近くのホテルで一泊。ほとんど眠れず、朝を迎える。翌8月12日、最後のリウマチ薬(効いていると思えなかったが、不安で止められなかった)を飲む。ついに松本医院へ向かう。

 

松本医院にて

 

<2003年8月12日>

手記にあった階段は、これかー。思ったより幅がある。手すりを頼りに上がる。

9:30の開院前なのに、盆休みが近いせいか、すでにたくさんの患者さん。中に入ると、手記にあった薬草の匂い。小さい子を連れた若いカップルも数組、アトピーだろう。受付をし、問診票(?)の記入。ペンもちゃんと握れず、字もへたくそ。待っている間、手記を読んでいるように言われる。座るところを見つけ、読んでみるが、首から頭にかけてのこわばりで、字を追うのも辛い。目を閉じて待つ。耳に入ってくる大阪弁。その中に、時折混じる男性の声。松本先生らしい。こてこての大阪弁と手記にあったが、本当だ。

1時間もしただろうか?看護婦さんの問診。付き添いも一緒にと言われ、息子も話を聞く。いままでの経過を聞かれ、「注射が一番悪い。」と言われる。「アレルギーは?」と聞かれ、胸を張って「全然ありません。」ところが「アレルギーがある方が、アトピーになりやすいんやけどねえ。」「そうでした。」血圧も測った。そして、またしばらく待った。

初めて、松本先生に会う。手記を読んでいたせいか、初めての気がしない。ぼんやりしていたピントが、ピタッと合った気がした。立ったままで、身振り手振り、早口の大阪弁に、少し圧倒されました。今の医学界のこと、ステロイドの事、政治の事、他の病院の事。息子に向かって、北海道から来たサービスだと言って(まだ待っている患者さんがたくさんいるのに)、ある患者さんの話をして、笑わせてくれました。思い詰めて暗い顔をしていただろう私を、その間も、観察されていたようだ。その目は、やさしそうに見えた。途中、電話が4本位入りました。鉛筆書きとボールペン書きを区別して、カルテに記入してゆく。そしてまた話しに戻る。いままでのように、体のどこがどうのと改めて説明する必要はなく、注射の本数や、食欲がない事の確認をされた位だったと思う。リウマチが「自然後天的免疫寛容」に至るために必要なことは、すでに聞かれていたようです。「今んとこ、プロテインを、1日15杯飲んどきなさい。」そして終わりの握手。「痛い!!」飛び上がれたら、飛んでいたでしょう。普通の握手だったんでしょうが、こんなに痛い!!いつか誰かの手記にあったように、握り返して、先生に「痛い!」と、言わせてみたい。先生は改めて私の手を取り、「治したるでー!きっと治したる!」そう何度も繰り返してくれた。私は「お願いします。」と頭を下げた。

再び看護婦さんの所へ戻り、採血。採血も終わろうとする頃、先生がやってきて、また手を取り、「治したるでー!きっと治したる!」…「はい。」不覚にも、息子の前で涙が溢れた。看護婦さんが言う。「先生、何人泣かすの?」・・・きっと、すがる思いでやってきた人が、何人もいるんだろう!やはり手記は本当だ。そして赤い軟膏を渡され、次の鍼を待つように言われた。

その後、また名を呼ばれ、鍼の部屋へ。入り口のドアに貼られた写真に、少しドッキリ!(何?これは手記になかった。)治療台に横になる。鍼の先生は、明るくテキパキと話しながら、隣の人と交互に治療を進めていく。私は次の診察まで日があくので、いままでの人たちはこうしていたとか、薬は2番3番4番と作って、お茶代わりに飲むとか、いろいろ教えてくれました。鍼を終わると、息子に、お灸のやり方を教えてくれました。(ドアの写真は、これでした。)初めてのお灸は、ほんのり暖かくて、心地よく感じました。確かに熱いけど、楽になる気がしました。それに、鍼の先生に「お灸の効くタイプやねえ。」と言われ、嬉しかった。何となく怖いと思っていたお灸も、続けられそうだ。私ももぐさを作ろうと手を出すと、「あんたは、覚えなくてよろしい。とにかく、お姫様のように、みんなやって貰うの!」・・・きっと、私はリバウンドで、何も出来なくなると、分かってたんですね。・・・そして、帰りも、空港では、車椅子を堂々と利用するように助言され、差し当たりのもぐさを貰いました。最後に「やることは決まってるんだから、それを毎日やっていけば、ちゃんと良くなる!先生の理論や手記を良く読んで、頑張って治して下さいね。そして、次はしゃんと歩いて来てくださいね。」・・・「はい。」

後は、漢方薬と入浴剤を受け取り、すべて終わりました。

いよいよ始まる。まだ何も始まってはいないが、晴れ晴れとしていた。きっと治る!治ってみせる!

この日の血液検査の結果

CRP7.0  RF336  血沈115  ZTT4.0 

 

 

旭川へ帰る〜闘病始まる

 

帰りの飛行機の中、体が火照る。氷で冷たくしたおしぼりを貰い、腫れて熱を持った手の甲や手首にのせて、冷やす。旭川空港からの帰り道、プロテインを買う。

家に戻ると、早速、主人が薬湯を入れてみてくれた。とっても暖まり、独特の香りも、気持ちがよい。お風呂で、こわばりが取れてゆく気がした。お風呂の間に、煎じ薬も煎じてみてくれた。苦いのかと思ったら、甘くておいしい。そして、お灸に使うもぐさのこよりの作り方を、長男が教えていた。次男が上手に作れるので、こより作りは彼の仕事になった。(それから毎日、1時間以上かかって、こよりを作ってくれた。一体、何本作ったんだろう。)やる事は決まっていた。

・煎じ薬を飲む。(煎じるのに2時間。1番煎じは、1日3回食前、2番、3番煎じはお茶代わり)

・薬湯に入る。(煮出し、成分を出すための揉みだし、1時間半。出来るだけ長く入る。だが、初めは15分も辛かった。色が湯船に付いてしまうので、入浴後すぐに洗う。)

    プロテインを飲む。(蛋白が足りず、1日20杯に変更。)

    お灸をする。(顔と血管以外なら、どこでも)

    鍼に行く。(大阪へ発つ前に行った治療院に頼む。)

<2003年8月13日〜>

必要な物の買い物をして貰う。やかん、茶こし、漢方薬や入浴剤を保管する箱、お風呂用の腰掛けの高い物、湯上がり用ガウンなど。もぐさは後日購入。

自分で、手にお灸をしてみる。熱いと思う頃には火が消えて、ポーっと暖かくなり、心地よい。これなら続けられる。午後、夫に、手の届かない所をお灸して貰う。横になってして貰った為、手元が見えない。いつ火がつくかと思うと、緊張する。出来るようになったら、自分でした方が良さそうだ。

<2003年8月14日〜>

間もなく77歳になる、実家の母に来て貰う。今まで家事を余りしていなかった夫や次男は、少しホッとしたようだ。でも、母も不整脈があるので、無理はさせられない。熱が37.3度〜37.6度ある。下がらない。

<2003年8月15日>

毎年盆参りに行く日だが、この日から、自ら起きあがることも、一人で歩くことも出来なくなった。いよいよ、私の免疫君が、本格的に頑張りだした。まるで足の裏がまん丸くなり、床に接する部分が極端に少なくなった気がする。だからバランスが取れない。敷物1枚の段差で、体が傾いてしまう。その上、足の甲やら足首やら、どこに触れても痛い。手も首もそうだから、どこを支えられても痛い。後ろから両脇の下を支えて貰い、やっとトイレへ行く。トイレに着いても、下着を下ろすことも、便座に座ることも、自分では出来ない。シャワートイレで良かった。どんなに痛くても手を伸ばし、痛さをこらえてスイッチを押した。

階段を3段下りる寝室では、もう無理になった。普段は、空いている長男の部屋へ移動する。入浴も自分では出来なくなり、入れて貰う。

食事も食べさせて貰った。だが、食欲がない。食前の煎じ薬で、お腹はもう一杯だった。無理して、少しだけ食べる。なのに、プロテイン20杯は大変。おかげで体重はほとんど減らず、かといって増えず。つまり、プロテインで補給する蛋白と、煎じ薬や他の水分が、それだけ必要だったんですね。

ベッドに横になっている時間は、うつらうつらするが、楽ではなかった。じっとしていると、固まりそうだ。痛くても、寝返りをするため、掛け声を心の中で唱えて、手と足を向きたい方向へ、ヨイショと動かす。時折、左を向こうと左肩を下にした時、声も出ないほどの痛みがはしる。そして、涙が出る。

<2003年8月16日〜>

熱が上がってきた。38.3度。頭が痛い。めまいもしてきた。本当に頑張るネー!免疫君!もっと頑張って、早くピークを過ぎておくれ!・・・気持ちは負けないぞと思っても、体力がないので、今日は薬湯を休む。・・・1日が長い。ただ苦しく、考えることもめんどう。

そんな時、私と反対で、1日が短い夫が、「毎日、決まったことをちゃんとやっていけば、リズムが出来て、だんだん楽になる。気が付けば、もう4日も経ってるぞ。1週間の半分以上過ぎたんだぞ。アッという間に、1週間、2週間、そして1ヶ月だ。」と言ってくれた。だが、後で「本当に寝たきり状態を前にして、どうしようかと思った。終わりの見えない介護なら、出来なかったなあ。」と言っていた。

幸い、1歩も足が前にでないと言う日は、4日ほどで済んだ。10センチでも20センチでも、前に足が出れば、私も支えてくれている者も楽になる。

<1週間後>

熱 37度前後

熱が落ち着くに連れ、少し楽になる。夫の言った通り、だんだんリズムができてきた。朝6時、母が起床。トイレや朝食など、見てくれる。昼間は、次男が力のいる部分を介護してくれる。また、夫は、仕事の合間に、私のお灸をしに帰ってくる。また、夕食後、薬湯を1時間以上かけて準備し、私を入れてくれる。そして、10時から2時間かけて、翌日のくすりを煎じる。

常に微熱があり、体が火照ってしょうがない私は、薬湯の後、一寝入りして目覚めると、体の中からムズムズとしてどうしようもない。イライラとして、大声で叫んでしまいそうだった。そこで、2時くらいまで居間で座り、火照りを冷ますなか、夫は話し相手をしてくれた。正直、この時間に、随分助けられたと思う。

その後の2時から6時まで、皆が寝静まり、一人になる4時間。長い長い4時間。つい悪い方へ考えてしまいそうな4時間を、うまく過ごせたのは、今思えば、このおかげだった気がする。

<2週間後>

熱 朝36.7度前後、夜37.1度前後

前屈みになれず、手も、右手が少し使える程度。顔はまだ拭いて貰っていたが、心持ち、痛みがほんの少しだが、和らいできている気がしました。

松本先生に電話するのも、もちろん家の受話器は持てないので、携帯でする。「リウマチは、何も恐いもんやない!必ず治したる!」と、側にいる息子に聞こえるほどの大きな声で励まされ(怒鳴られ)、終わる。大体、いつも同じなのに、なぜか顔がほころんで、元気になれました。

<1ヶ月後>

左手人差し指付け根の所が、お灸もしていない所なのに、ほんの少し赤くて痒い。
・・・まさかこんなのがアトピー?・・・松本先生に聞くと、そうだと言う。・・・だが、その後、お灸した所が、お灸の後少しすると、痒くなるようになる。薬湯の後もそうだ。こうして、もっとアトピーがはっきり出てくれれば、回復は早いか?と、怖いながらも期待していた。少し腫れも引き、痛みも楽になってきていた。

ところが、急に、朝、腫れが戻り、体も再びつっぱって、痛くて足が一歩も前に出なくなる。少し熱もある。・・・また、あの日々に戻るのか?・・・原因は、生理だった。自分のことが自分で出来ない、こんな時に、よりによってなぜ?・・・でも、悪いことではないと、すぐわかった。少しだが、ひとやま越えたように、体が楽になったから。

<2ヶ月後>

忘れもしない10月16日、初めて、一人でトイレが出来た。ばんざ〜い!!!これで、母を解放してあげられる!心配や気疲れ、不整脈や腰痛の持病があり、主治医には、「共倒れになるぞ。」と、言われながらの介護。この2ヶ月で8キロも痩せていました。日中、一人で居られるようになったので、10月20日、母は帰りました。

それからは、家事は、ほとんど夫がしてくれました。次男は、洗濯と私のお灸用のこより作り。食事は、ふたりで相談していました。私の仕事は、自分のお灸。そして、だんだん出来ることが、少しずつ増えていきました。

11月になると、レンジの扉を開けられるようになり、食事も、麺類など、一人前を食べるようになる。左手でも鼻を触れるようになり、化粧水も、右手で顔にのばすだけだが、出来るようになった。1年前の冬靴が、履けた。手も、随分腫れが引いている。

<2003年11月25日>

2回目の松本医院へ。右側に立って、右脇を支えて貰えば、階段の登り降りも、一歩ずつ出来たが出来た。今回は、初めから車椅子をお願いして、伊丹空港で長男と待ち合わせて、病院へ。手のお灸の後は、さすがに人目に悪いので、手袋を履いていく。空港で、コーヒーを飲もうと、手袋を脱いだとき、近くの男性がギョッとしていたと、後で息子が言っていた。

血液検査の結果は、

CRP 4.3   RF 164   血沈 60

どの数値も、大体半減していたので、鍼も週1回、プロテインも、半分の10杯になりました。また、鍼の先生にも「声が明るくなったね。」と、言われ、お灸のやり方も、「大体良いが、リウマチを取り囲むように、手首など、内側にもするように」と、言われました。

正直、2回目3ヶ月経って、初めての時より、外見的には不自由でしたが、気持ちは、これからは良くなって行くという実感がありました。

12月初め、どうしても見たい人形劇公演。仲間に支えられ、出かけました。「ついに、ここまで来た。」思わず涙が出た。私は誇らしい気持ちだったが、皆は、本当にひどい時を見ていないので、随分痛々しく感じたと言っていた。

それからは、リハビリになるので、なるべく自分の事は自分でするように心がけました。年末、多分今年は書けないと思っていた年賀状も出し、元旦の雑煮の用意もして、正月を迎えることが出来ました。

<2004年1月>

本当なら、外へ出て、散歩でもしたい。だが、ここは北海道!冬真っ盛り!雪の中散歩なんて、夢のまた夢。滑って転んでも、手で支えることも出来ないんだから、とんでもない。外に出るのは、週1回の鍼の時だけ、という日々が続いた。

2月初め頃より、劇団の公演の際、音だしの手伝いで、出かけるようになる。出かけるためには、化粧もするし、服も着替える。本番中は、緊張もする。そして、シャンプーなども自分で出来るようになり、一人で入浴するようになったのも、この頃だった。

<2004年2月17日>

3度目の松本医院。

今回は、次男に付き添って貰う。車椅子も使わず歩けたが、荷物持ちと、着替えの手伝いをして貰った。松本先生に初めて接し、そのパワーに圧倒されたようでした。診察中も、何度もかかってくる電話に、怒鳴って「もう診てやらん!」と言っている姿に「どうなるんだろう・・・」と、心配したと言っていました。私は、最後には大丈夫、とわかっていましたが・・・

血液検査の結果は

CRP 3.2   RF 98   血沈 21

体重が増えていることもあり、プロテインは、5杯になった。体重の増えた私に反比例するように、すっかりお腹も引っ込んで、すっきりスリムな夫だが、体調はよいというのが救いだ。

次男も大学に合格して、4月からは、札幌での一人暮らしが始まる。毎日毎日、お灸のこよりを1時間かかって作り続けてくれたのに、感謝。これがなければ、こんなにお灸を気軽に出来なかった。

<2004年5月19日>

4度目の松本医院。

初めて、一人で行く。夜6時半、鍼の予約、ぎりぎりで間に合う。午前中と比べ、余り混んでいないので、早い。鍼では、指の付け根、手のひら側から、もするように言われた。

血液検査の結果は、

CRP 2.03   RF 117   血沈 15

プロテインは、止めても良いと言われる。でも、1杯だけは、今も飲んでいます。

また、松本先生には「もう、自分がリウマチだなんて、気にしないで生活するように」とも言われました。何よりうれしい一言です。

数値的には、もう急激な変化はないのだろう。実際、まさに”薄紙を剥がすように”という表現がピッタリ!少しずつ、少しずつ、良くなってきています。

<2003年8月12日>

松本医院にお世話になってから、丁度1年です。毎日決まったことをやって、1年。日常生活は、ほとんど以前と同じように過ごせるようになる。こんな簡単なことも出来ないと、情けない思いをしていたのが嘘のよう。出来ることと出来ないことの逆転は、一体、いつだったのか?・・・

いつも先生に、電話で「アトピーはどうだ?」と聞かれます。残念ながら、私は、ひどいアトピーにはならずに済みそうです。残念ながらというのは、アトピーが強く出れば、快復も早いというから・・・。でも、ステロイドの注射を6本以上しているし、私にはアレルギーが全くなかったため、アトピーが出にくいとも言われました。お灸の後の痒みが、私のアトピー!

この頃、お灸の後も、痒みが余り感じられなくなってきましたが、手首、足首は赤く、熱をもっています。そこは、今も、コワバリを感じるところです。いつか、このコワバリ感のない、スッキリとした朝を迎えられる日が来るまで、先生に完治したと言われるまで、この治療を続けていきます。どうぞよろしくお願いします。

最後に、落ち込んでいた私を心配し、励ましてくれた友人、知人、親戚にお礼申し上げます。もちろん、家族にも感謝。

そして、松本先生や、鍼の先生はじめ、松本医院の皆さん、旭川で鍼をしてくれた先生にも、心より感謝しています。

「大阪へ行く決断に間違いはなかった。」・・・これが私の結論です。